Perspectivism/chronicle
遠近法的風景の私的変遷
この作品集をまとめるにあたり、タイトルを『Perspectivism/chronicle 遠近法的風景の私的変遷』とした。パースペクティビズムというのはニーチェが提唱した、遠近法的視点が相対的なものでしかないという既存の世界観を覆す意味を込めた言葉であり、一般には「遠近法主義」あるいは「遠近法的観念」と訳すことが多いらしい。
この現実世界の「ありよう」をどう見るのか、果たして我々は何を見ているのか、といった認識論の基本的な問題定義の中で、我々が思い描いていた世界の見方が、じつは単なる思い込みにすぎないことを「遠近法」つまり一人の観察者が見た世界を、まるで普遍的な世界の「ありよう」であると勘違いしているのだという意味である。
そういう意味では、とくに私がこの17年近く作り続けてきたビジョンは、まさにこの遠近法主義的世界観に関する問題を出発点としている。かといって、それは単に物理的な視覚的リアリズムを問題にはしていない。作品は写真を使ったものではあるにせよ、現実とは少し違った世界を表している。
この手法で作品を作り始めたのが2001年。海の上に馬がたたずむ『風景ー夢のつづき』が、自分にとっての「遠近法的風景」の始まりだった。その後、馬は荘厳な滝の前に現れ、次に冬の森に現われる。こうした作品制作の過程の中で、私の問題意識にあるのが「風景」そのものであることに初めて気がついた。なぜそこに馬がいて、海があり、滝があり、森が現れるのか。それは自分にもわからなかった。しかしその後、そこに共通するものが、月の光に照らされた風景であることに気づかされる。主題はそこに現れた馬や滝や森ではなく、それらを浮かび上がらせる月の光なのではないか。なんとなくそう思った。では月の光とは何だろう。何を意味しているのか。それ以前に何かしらを意味するものなのか。
そうした思索とともに作品制作を続ける中で、私の目の前に現れたのが、中国の唐の時代に作られたというテラコッタで作られた獣人の像だった。皇帝の墓に埋蔵されていたらしいという干支の動物を擬人化した像を見たときに、何かしらのメッセージを伝えられているような気がして、無性にその像の形を描きたいという衝動に駆られた。
それが『時空の守部』と題した3点の素描である。それぞれ猿、牛、兎の頭部に人間の身体を携えた像は、時空を象徴するものだった。海の上にたたずむ馬が、私の意識を月の光が照らす滝に誘い、その先に現れたのものが時空を見守る干支の守護神だったというストーリー。もちろんそれは自分の勝手な想像でしかないわけだが、そこにはもはや客観とか主観という概念では理解できない自分にとってのリアリティがあるように思えた。
一体この物語が何を意味するのかは自分でもわからないし、単なる途方もないこじつけでしかないのかもしれない。しかしニーチェの「遠近法的風景」という考え方は、この風景論にひとつの客観性を与えてくれるように思う。つまり、一個人の現実から遠ざかろうとする視点は、単なる荒唐無稽な妄想ではなく、それなりに個人以外の何かに引き寄せられて成立したものではないかと。
西洋での深層心理学の学究の成果によれば、こうした一連のイメージの変遷は「能動的想像法」というメソッドに近いらしい。現実とは違う内面的な世界の広がりというものが、脳の機能にはあるらしいという話である。かといってそれが何を意味するのか、どういう結果をもたらすものなのかはわからない。しかし少なくとも、そうした精神的なビジョンに客観性を持たせ、他者にその是非を問いかけることのプロセスが、ひとつのアートとして成立するのではないかという漠然とした予感はある。決して見たことのない風景が、遠い記憶として蘇ってくる。それは作品を見る側にとっても、遠いかすかな記憶を呼び覚ますような体験を共有する。その共感そのものがアートとして成り立つのではないかと考えた。 その後に制作したのは、手法的にはまったく違うアプローチであるピンクとオレンジの色面がブラックライトによって浮かび上がるインスタレーションだが、これも月の光のメタファーだと後になって思う。
それからまたしばらくは風景写真を素材とした『存在の記憶』が出てくるわけだが、倉庫や古民家が水面に映し出される風景には、やはり背後に月の光があった。
その次に登場するのは工場の廃墟に複数の裸体の女性が点在する透視図法的な風景となる。それからその風景は裸体そのものとなり、さらに裸体は消えて薄暮に映し出される発芽直前の桜の木の枝へと移り変わり、再び滝が現れる。そしてそこにも確かに月がいるのだ。
こうして17年間にわたり月の光に誘われて登場した幾つかのビジョン。海、馬、滝、干支の守護神、名もなき風景、抽象的な色面、古民家、倉庫、工場の中の裸体、桜の木の枝、滝の流れ。
そうした風景がなぜイメージとして浮かぶのか考えても答えがわからないのは、おそらく自らがそのビジョンによって何かを表現しようとしているのではなく、逆に風景に作らされているという気がしてならない。つまり「自分が見た世界」が前提となる「遠近法的風景」は、いつしか知らないうちに「個人の視点を持たない非遠近法的風景」へと移り変わっているのではないか。そう考えると、この世界に個人的な視点による世界観など意味はないというニーチェの洞察が、よりリアルなものとして迫ってくる。
そこで思い出されるのがメルロ=ポンティの言葉である。
「一般に〈霊気を吹き込まれる〉と呼ばれているものは、文字通りに受け取られるべきである。本当に、存在の吸気とか呼気というものが、つまり存在のそのものにおける呼吸があるのだ。もはや何が見、何が見られているのか、何が描き、何が描かれているのかわからなくなるほど見分けにくい能動と受動とが存在のうちにはあるのである。」
メルロ=ポンティ『眼と精神』(1966年 滝浦静雄・木田元共訳、みすず書房)
なるほど、見る側から見られる側へ、能動と受動の絶えざる入れ替わりとは、呼吸=吸気+呼気の相互作用のことだと腑に落ちた。人が目の前に広がる風景を見ることも、人間も含めた自然が常に『呼吸』をすることなのだと太古の人たちは本能的に感じ取っていたのだろう。そしてこの『呼吸』のことを「霊気を吹き込まれる」と言う意味のインスピレーションと名付けたのだとすれば、とても合点のいく話である。
今回のテーマとして名付けた「遠近法的風景の私的変遷」とは、「個人の視点」から「個人ではない視点」への変遷のことである。私たちが風景を見ると言う行為は、単にこちらから一方的に風景を見ているのではなく、見る側と見られる側との絶えざる転換の中で繰り広げられる『呼吸』のようなものなのではないかと思い至った。冒頭に述べた「果たして我々は何を見ているのか?」と言う従来の認識論的命題は、一度ご破算にして、「我々は何を見、何を見せられているのか?」という視点を持つことができれば、私たちに今まで見えていなかったものが少しは見えてくるのかもしれない。
最後に、この作品集を制作するにあたり、過分なメッセージを賜りました映像作家の山本正興氏と漫画家の岡野雄一氏にこの場を借りて厚く感謝申し上げます。
2018年9月1日