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月の光
ドキュメンタリー映像作家 山本正興

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 高名な映画監督の新作発表会見で、ある記者がこう訊いた。

「今回の作品で監督は何を言おうとしたんですか?」

 すると、きっと興醒めしたのだろう、それまで機嫌の良かった監督は「それが言葉で表現できるくらいなら映画なんか作んないよ」と憮然として答えたそうだ。

 そうなのだろうと思う。芸術のジャンルに関係なく、作者は言語ではない「何か」に動かされるのだと思う。そしてその「何か」を受信できるのも、彼らの「センサー」が敏感であるからだろう。たぶん周りの人よりも感知能力が高く、時代の気配が色を帯びる前、まだそれが透明なうちに感覚できるのだ。何かの兆候が社会に現れ、始めはみんな気付かないけれど、高い感度を持つ作家だけは、いち早く反応して絵を描いたり彫刻したりと何らかの表現をして、遅れてくる私たち大勢に知らせるのだろう。そんな仕組みをヒトの集団は持っているような気がする。芸術家は、本人のあずかり知らないうちに「炭鉱のカナリヤ」の役割を担っている。危険を目視してリアルタイムで群れに伝える「奴雁」や、時代が終わりそうになって飛び立つ「ミネルヴァのフクロウ」とも違い、芸術家は前もって私たちに時代の様相を示唆してくれるのだ。ただ、そういった能力は、深い苦悩や哀切と親和性が高いようにも思える。 吉田さんの「遠近法的風景の私的変遷」を読んだ。彼は省察して、自らの作品の意味を汲み取ろうとしてそれが徒労であることを認識した。次いで彼は、自らの作品風景のどれにも通底しているものがあり、それが「月の光」であることに気付いた。そして更に、それは自身が意図したわけではなく、何かによって意図せしめられたことに思い至った。

 優れた芸術家がそうであるように、きっと吉田さんはシャーマンなのだ。死者の霊を口寄せするという東北のイタコや沖縄のユタのように、彼も、現世と(四十九日の)中有、あるいは意識と無意識の「あわい」を往還できる資質を持つのだろう。かつて写真家の東松照明氏を取材しているとき、私にこう呟いたことがある。「風景はね、タブローなんですよ」彼は感じたままに撮り、コンタクトプリントを拡大鏡で覗いて、「作品」を発見していた。彼も「何か」に撮らされていたのだ。東松は長崎の低い山から見下ろす風景を好んで撮っていた。市街地との境界の山裾には墓地が広がっていて「ここから見るとね、ほら、死者と生者の世界が一緒に写るんですよ」と言って淡々と撮っていた。

 その「あわい」が霊的な中有であれ、クロノス的なちょっと先の社会であれ、それらは近似していて共に「異界」である。そして、その異界を覗けるかどうかが、芸術家の感受性というものなのだろう。

月の光は吉田さんを異界へと導く。そして吉田さんは、月光を触媒として、彼の風景にタブローを見出していく。

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